地域情報

『Justus ~義の人・高山右近~』


『Justus ~義の人・高山右近~』

2017年2月7日、キリシタン大名であった高山右近が『福者』と認められたことを宣言するカトリック教会の列福式が、大阪城ホールで開かれました。 日本での列福式はこれが2度目で、当日は約1万人が参列しました。 1614年に江戸幕府の禁教令で国外追放となり、日本から遠く離れたフィリピンで病死した高山右近は、私たちが住む高槻と深い関わりがあります。

今回はそんな『高山右近』について、クローズアップしていきます。

What kind of person was Ukon Takayama?
~高山右近はどのような人物だったのか?~

【Ukon’s Profile】
名前 :高山 右近(1553-1615)
通称 :彦五郎 ※他にもいくつかある
洗礼名:ユスト(Justus:正義の人・義の人を意味する)
出生地:摂津国三島郡高山庄(現在の大阪府豊能郡豊能町高山)
両親 :父・高山 友照(洗礼名ダリヨ) 母・マリア※洗礼名
配偶者:ジュスタ※洗礼名
子ども:3男(長房・忠右衛門・亮之介)1女(初※洗礼名はルチア)
趣味 :茶道(利休七哲の一人)
宗教 :キリスト教
性格 :とてつもなく真面目・正義感が強い・人を惹きつける魅力や話術がある
住居 :高山(大阪)⇒沢城(奈良)⇒芥川城(大阪)⇒高槻城(大阪)⇒明石(兵庫)⇒加賀(石川)⇒マニラ(フィリピン)

Ukon’s episodes
~右近の逸話~

【episode1】『首の半分を切られる重傷を負うも、奇跡的に復活』

元亀3年(1573年)、和田惟長に謀られ、闇夜に切り合いになったことがありました。その際加勢してきた高山家の家臣が、誤って右近の首を半分ほど切断してしまい、右近は大怪我を負ってしまいました。あまりにも重傷でしたので、助かる見込みは絶望的だったのですが、奇跡的に回復しました。そのことにより右近は一層キリスト教に傾倒するようになったそうです。

【episode2】『ピンチの時でも冷静に考えれば、糸口は見つかる』

天正6年(1578年)、右近が与力(有力武士に従属する下級武士のこと)として従っていた荒木村重が、織田信長に反旗を翻しました。なんとか村重に思いとどまらせようと、右近は自分の妹や息子を人質に出しましたが、聞き入れられませんでした。その頃右近は高山家の当主となっており、高槻城を居城としていたのですが、高槻城は戦略上重要な拠点であったため、村重征伐に挙兵した信長はまず高槻城へやってきました。右近が金や地位で動かないことを知っている信長は、降伏しなければ畿内の宣教師やキリシタンを皆殺しにし、教会を破滅させると脅してきました。人質や宣教師、キリシタンたちを助けるにはどうしたらよいか、悩んだ末に右近はたった一人で紙衣(和紙の着物。下着によく使われていた)だけを身にまとって、信長の前に出頭しました。こうすることで、城と兵全てを持って信長の元へ行ったのではないため、村重を裏切ったことにはならず、また信長に対しても反抗の意思がないことを示せたのでした。右近の離脱により村重は敗北、その功績を認めた信長は、右近に再び高槻城主としての地位を安堵し、さらに2万石から4万石に加増しました。

【episode3】『誰に何と言われようとも、信じる道はまげない』

天正15年(1587年)、豊臣秀吉は『バテレン追放令』を施行しました。その頃右近は、秀吉から信任を受け、2年前から播磨国明石郡の船上城を居城とし、新たに領地を6万石与えられていました。秀吉の右近に対する評価は高く、なんとかその才能を残したいと思い、茶道の師匠である千利休を右近のもとに遣わせ、棄教を促進させましたが「主君の命令に背いても、志を変えないのが真の武士である」と利休の説得に応じなかったそうです。そして右近は領地も財産も全て捨て、信仰を守ることを選びました。その後は親交のあった小西行長や前田利家に庇護されて過ごしました。その後、慶長19年(1614年)徳川家康により出された『キリシタン国外追放令』により、加賀で平穏な暮らしを送っていた右近はフィリピンのマニラに追放されました。マニラでは熱烈な歓迎を受けたものの、長い船旅となれない環境により、到着した翌年の1615年2月3日、右近は63歳で生涯の幕を閉じました。

【episode∞】『ほんと?うそ?右近の小ネタ集』

  • Ⅰ:細川ガラシャ(明智光秀の娘で細川忠興の妻)がキリシタンになったのは、右近の影響らしい
  • Ⅱ:小田原の陣で蒲生氏郷と細川忠興(ガラシャの夫)と右近で牛肉を食べたらしい  (当時日本は仏教が主流で、獣肉を食べることは忌み嫌われていました)
  • Ⅲ:高槻城主であった頃、城下である村人が亡くなった時のこと。当時賤民の仕事だった棺桶を担ぐ仕事を右近が自ら率先して行い、領民たちを感動させたらしい

Castle of legend
~右近の居城・高槻城とは~

最後に、右近の居城であり、高槻と深い関わりを持つ高槻城についてまとめていきます。

【高槻城の基本情報】
別名  :久米路山龍ヶ城、入江城
築城年 :10世紀末
廃城年 :明治7年(1874年)
築城主 :近藤忠範
城郭構造:平城
天守構造:三重天守(非現存)
主な城主:入江氏、和田氏、高山右近、内藤氏、永井氏

【高槻城の現在は?】

下の地図は、現在の高槻城周辺の地図に高槻城の城域を重ねたものです。(黒い線が城域です)

高槻城の本丸があったとされる場所には、現在大阪府立槻の木高等学校があります。槻の木高等学校の敷地内には、高槻城跡の石碑が建てられています。

<高槻城跡石碑>

また、当時の堀の一部や本行寺門と永井神社唐門と蔵(どちらも移築されたと伝承)が遺構として現存しています。


<本行寺門>


<永井神社唐門>


<蔵>

城域の一部は、現在城跡公園として整備されており、復元された石垣や天守台、高山右近像が建てられています。


<石垣>


<天守台>


<高山右近像>

現在高槻城三の丸跡の一画にある『しろあと歴史館』では、高槻城築城400年を記念したさまざまな催しが開かれています。詳しくは下のURLをクリックしてください。
http://www.city.takatsuki.osaka.jp/m/rekishi_kanko/rekishi/1378689373722.html

まとめ

今回は高槻に深い関わりのある『高山右近』についてクローズアップしました。
下剋上が当たり前だった戦国時代、ある意味なんでもありだった中、たとえ全てを失っても、自分の信じる道を貫いた右近。その人柄は、右近の洗礼名であるユスト(Justus:正義の人・義の人を意味する)そのものだったのではないでしょうか。
約400年の時を経て『福者』に認定されたことを、きっと遠い空から喜んでいることでしょう。

Top