学習塾の歴史や語源、作った人を徹底解説!寺子屋が始まりって本当?

個別指導塾について

■学習塾の歴史の流れ

 

「学習塾はいつから生まれた?」「学習塾の起源が知りたい!」

 

などと、学習塾に通う生徒は一度は考えたことがあるでしょう。今やどんな地域にも、駅前や住宅地内にも存在する「学習塾」。子どもがいる地域で、学習塾がないところを探す方が大変なほど、全国に点在しています。これほどまでに発展した「学習塾」の始まりは、一体いつなのでしょうか?そこで今回は、学習塾の起源から、現在に至るまでの歴史をご紹介します。学ぶ場所(学習塾)のルーツを学んでいきましょう。

 

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「学習塾」とは?

そもそも、学習塾とはどういうものなのでしょうか。これからの内容を読みやすくするために、まず初めに定義しておきましょう。

学習塾とは、次の2つの役割を持ちます。

進学のための学力向上の役割

学校の授業の理解不足を補うための役割

学校で習ったことの理解を深めるため、わからない部分を理解するため、能力を伸ばすために学習塾が存在します。

学習塾の始まりはいつ?

学習塾の始まりは今から約1,200年前、平安時代に遡ると言われています。平安時代は貴族層の人たちが政治や文化を支配したとされる貴族文化時代でした。したがって、当時の学習塾に通えるのは、貴族階級の子どもたちに限られていたようです。庶民のための教育機関もあったようですが、どれほどの人が通っていたかは不明とされています。この時代の学習塾で習うことは、今の学習塾で習うこととは大きく異なり、和歌などの素養を学んでいたことから、貴族としての教養・知識が重視されていたようです。日本に現存する最古の和歌集である万葉集も、この時代に生まれました。また同じように、紫式部の源氏物語、清少納言の枕草子もこの時代につくられました。現存している和歌集や物語、随筆の数多くが平安時代に生まれたものです。学習塾を生み出した平安時代の文化は、現代にも大きな影響を与えていると言えるでしょう。

学習塾の変化

平安時代以後は貴族から武士の時代へと移り変わり、戦乱の世では当然教育は軽視されてしまいました。学習塾が際立って栄えだしたのが、今から約400年前の江戸時代に入ってからだと言われています。江戸時代は、日本史上で最も平穏な時代でした。文化の向上だけでなく、学問を探求するだけの余裕があったと言えます。ゆえに、江戸時代には吉田松陰や杉田玄白、大塩平八郎や福沢諭吉など、数多くの有名な学者が存在しました。それらの学者は、それぞれに自分の塾(私塾)を開校し、その私塾からさらに著名な学者や時代を動かす人間が輩出されました。江戸時代の教育は、当時世界最高峰だったとも言われています。識字率で見てみると、諸説ありますが当時の日本は50%、同年代のイギリスが25%、アメリカが20%、ロシアが10%でした。このことから、日本は極めて高い教育水準を誇っていたことがわかります。

「寺子屋」の登場

 

平安時代、庶民のための教育機関は寺院が担っており、6~7歳ぐらいの年齢から寺院に住み込んで学習生活を送っていました。この、学習のために寺院に住み込む子どもたちを寺の子=寺子と呼んでいました。そして、江戸時代に入ると学問の追及・教育の重視化により、寺院を離れて巷でも行われるようになりました。寺子という言葉はそのまま残され、私塾とは別に子どもたちを教える施設を「寺子屋」と呼ぶようになりました。江戸時代後半には、江戸などの中心地はもとより全国の農山村にまで広く普及し、まさに寺子屋が明治初期の小学校や今の学習塾の原形にあたるものに変化していきます。江戸時代末期には、全国で15,000以上も存在したと言われ、この数は私塾や他の教育機関と比べると群を抜いており、日本各地に満遍なく設置されていたことから、寺子屋が江戸時代の日本に広く教育を普及させたと言えます。先述したこの頃の日本の識字率の高さは、寺子屋の存在が大きな要因でありました。

寺子屋が出来た背景と中身

 

寺子屋が設立された背景には、江戸時代に教育が重視されたこと以外に、庶民からの`経済的要請`が背景に大きくありました。親が子どもに家業を継がせるために、それに必要な訓練を施さなければいけませんでした。しかし、親は自分の家業で手一杯で、子どもの教育に十分な時間を割くことが困難でした。そこで、教師を職業とする者に訓練を委託するという形が生まれました。ですので、寺子屋では「読み・書き・そろばん」を習い、併せて当時の社会で庶民が生きていくのに必要な知識や生活の知恵など、現代の学習塾と比べて極めて実用的な教育が実施されていました。「読み・書き・そろばん」の稽古のための教科書は、現存する物だけで7,000種類を超え、その内容も多岐にわたることから、同じ稽古でも様々な教え方があったと考えられています。
 寺子屋の教師は、僧侶や医者、裕福な農民や村の役人が大半を占めていました。自発的な善意・使命感に基づき勤めた者や、個人の生計手段として勤める者がいました。ですが、寺子屋の教師の給料はとても生活できるほどの額ではありませんでした。それにも関わらず、全国に15,000以上も展開できた背景には、生徒からは師匠として崇められ、地域からは知識人・有職者として尊敬されるという、精神的価値に満足感を見出す価値観が存在していたと言えます。

寺子屋の教育観とは?

『三つ心、六つ躾、九つ言葉、十二文、十五理で末決まる』

これは、寺子屋の教育観を表しています。

読み方


「みつごころ、むつしつけ、ここのつことば、じゅうにふみ、じゅうごことわりですえきまる」

意味


人間は「脳・身体・心」の三つから成りたち、心こそが脳と身体を結び操る要であるとの認識に基づき、3歳までに脳と身体と心の関係を悟らせ、心の重要性を実感させることを教養の旨とする。6~7歳になると、寺子屋では自発的に師匠・親・兄弟姉妹・世間を見つめ見取るように仕向け、観察力・洞察力を養う。9歳までには、公的挨拶の習得を目指し、立ち振る舞いを体得させる。12歳頃には、一家の主の代筆を担える程度の事務作業能力を目指し、15歳頃には、経済・物理・科学など森羅万象を実感として理解できるようになるとする。

このことから、寺子屋教育は年齢から段階的に分け、理論と実践を融合した総合人間教育であったと言えます。当時と現代との社会の仕組みの違いから、今の学習塾とは似て非なるものでした。

寺子屋から現代の学習塾への変化

寺子屋が現代の学習塾の原形であったことは間違いありませんが、形態は大きく違います。一言で言うと、

寺子屋=道徳主義教育

現代の学習塾=能力主義教育

道徳主義とは、社会において共通する善悪の価値観に基づき、より健全で快適な共同生活を送るために、守るべきルールを守りましょうという考え方です。江戸時代の庶民の間での共通の価値観に基づき、平和な世の中を作りましょうという教育が実施されていました。
ある意味、理想的ではありましたが、同時に身分制度が社会の中で大きな壁となっていたのです。身分の高い家庭に生まれた子どもは、大人になると能力のいかんに関わらず、親の仕事を必ず引き継げます。したがって、勉強という努力をせずに重要な役目につけました。反対に、いくら努力をしても身分の低い家庭の子どもは、一向に報われませんでした。無能人材が重役につき、且つ怠ける始末でした。社会全体に歪みが生じだしたのです。 併せて、この時期に大きな出来事が起こります。ペリーの黒船来航です。

 

諸外国から、開国するよう迫られた日本は、諸外国に負けない強い国を作ろうという考えのもと、改革が行われました。これが明治維新です。日本国内の社会の歪みと諸外国からの圧力により、農民も武士も町人も関係ない優秀な人材を育てる場所を全国に作ろうという考えが広まり、これまでの道徳主義教育から、能力主義教育へと移行していきました。同時に試験制度が導入され、今の学習塾と限りなく同じものが明治維新後に形成されました。

現代の学習塾ブーム

 

試験制度=受験システムの導入により、先に定義したとおり進学のための学力向上の役割・学校の授業の理解不足を補うための役割を持った学習塾が重宝されました。戦後1,960年代に第一次ベビーブーム世代が中学受験・高校受験を迎える時にはその数が一気に増え、第一次塾ブームとも呼ばれています。また、同時期に高度経済成長が始まったことも学習塾増加の要因と言われています。農業や漁業ではなく、企業に勤めるいわゆるサラリーマンが増えたことで、就職先や給料の額にも学歴が影響するという認識が広まりました。親世代の人たちが、自分の子どもに学歴をつけさせようとすることは自然な流れでした。

 1,970年代には高校・大学への進学率が上昇すると、子どもの成績の高低差が顕著に見られるようになりました。学校の授業についていけない子どもの実態をとらえた、「落ちこぼれ」という言葉が生まれて社会問題にもなりました。一方で、受験対策に特化する「進学塾」も生まれました。これまで学習塾は個人経営が主でしたが、塾生が数百人にもなる企業型の塾や、フランチャイズ運営による塾なども登場していきました。この頃は塾に通いたい子どもの数より、学習塾の数のほうが多かったと言われ、第二次塾ブームと呼ばれました。

1,980年以降、公立中学校における校内いじめが社会問題になり、特に都市部では私立校の人気が高まりました。これによりますます塾の数が増加し、現代社会で進行し続ける少子化に逆行して、増え続ける学習塾業界が形成されています。

個別指導塾の誕生

少子化が進行し、学校のクラスの人数は30人ほど、もしくは地域によってはもっと少ないところもある時代です。また、先生2人体制で授業を行う学校もあります。全員の前で全体を指導する先生と、教室の中を回りながらクラスの全員が理解できるようにフォローをする先生の2人体制です。一人一人をしっかりみるという価値観が強まってきています。また、大学進学が一般化する中で大学に行きさえすれば将来何とかなるという考えは消え去りつつあります。これまでになかった職業に就く人が増え、何が何でも一流大学を目指すという激しい受験戦争に背を向ける価値観が生まれたのです。そうなると、大人数に向けた画一的なカリキュラムでは対応できなくなっていきます。生徒一人一人を主体としたカリキュラムの要求に応えていかざるを得なくなったのです。
 このように価値観の多様化が広まり、学習塾では新しい指導スタイル「個別指導」が誕生しました。また近年、個別指導塾の数が増加しているのは、ここ10年で急加速している少子化の影響によるものと言えます。

■学習塾の歴史の流れ

■学習塾の歴史の流れ

まとめ

学習塾の起源から、現代までの歴史をご紹介しました。平安時代から現代に至るまでの約1,200年をかけて、時代の変化と共に学習塾も変化していきました。少子化の進行やAI(人工知能)技術の発展により、今後も変化し続けると言われている学習塾業界。はたして、今日から1,200年後にはどのような形態になっているのでしょうか。通塾型から自宅で学習できる通信型への完全移行。はたまた、寝ている間に夢の中で学習することが出来る技術の進歩。平安時代の人々が想像もしていなかった人工知能のように、きっと今の私たちには想像もつかない形態へと変化していくことでしょう。最後に個人的な意見としては、どれだけ技術が進歩しても、やはりロボットではなくロボットを上回る血の通った人間が教える世の中であってほしいです。

この記事の筆者

KEC個別指導メビウスwww.mebius-kobetsu.jp

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